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  • 【薩摩酒造】 枕崎 かめ壷仕込 芋 25度 1.8L 【芋焼酎】
日本酒・焼酎

【薩摩酒造】 枕崎 かめ壷仕込 芋 25度 1.8L 【芋焼酎】

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薩摩酒造

南薩摩が、ふるさと 薩摩酒造

伝統を受け継ぎ新たな焼酎文化を開拓する

焼酎のふるさと 南薩摩

薩摩半島は大隅半島とともに、鹿児島県を二分する半島です。南薩摩はその半島の文字通り南の地域です。東は錦江湾に、西は東シナ海に面しています。地図を見て下さい。錦江湾の方から見た南薩摩地方は鹿児島の「鹿」にあやかるわけではありませんが、鹿の横顔に似てると思いませんか。鼻が開聞岳、口が指宿、鼻の穴が池田湖、そして目が枕崎や坊津、角が野間岬で耳の付け根が加世田でしょうか。

半島の東西には開聞岳と野間岳がそびえています。なかでも海辺からすっくと立ちあがった開聞岳は薩摩富士とも呼ばれ、多くの人々の信仰や敬愛の対象となってきました。

古くから栄えた 南薩摩

南薩摩は焼酎のふるさとだけでなく、日本の神話や古代文化が息づいていたふるさとでもあります。「日本書紀」や「古事記」に登場する笠沙宮や阿多隼人、また鑑真和尚がたどりついた坊津。坊津は後に遣唐使や南海貿易の拠点として、那の津(博多)や安濃津(伊勢)とともに日本三津の港とも呼ばれていました。ただ、薩摩半島の大半はシラス台地です。今では広大なサツマイモ畑や茶畑が広がっていますが、この美しい緑の大地の下には開墾や畑地灌漑など多くの人々の永年の血と汗と涙が脈うっているといってもいいでしょう。

乏しさが生む豊かな匠と銘水

枕崎から笠沙地方にかけては、断崖の入り組んだリアス式海岸です。しかし、時として田畑の乏しさは、豊かな技能集団を育てるものです。明治期、薩摩で焼酎造りがさかんになるとともに、笠沙の黒瀬杜氏の男衆は、杜氏として各地の蔵元に出向きました。これが後に阿多杜氏とともに黒瀬杜氏と呼ばれる技能集団の系譜を作ったのです。収穫の秋が近づくころ家を出て、半年ほど焼酎を造って、春わがやに帰る。黒瀬杜氏たちは、まさに腕一本でこの世を渡るマエストロたちです。さらにシラス台地は、保水性はありませんが、地下には滋味ある水を湛えています。薩摩大隅が今日、銘水のふるさととも言われるのもその証しでしょう。枕崎の白沢地区にも、神の河と呼ばれる湧水川があります。このように、南薩摩の土の恵み、人の匠、そして水の恵みがあいまって、本格焼酎のふるさとと呼ばれるような地域を作りあげてきたのです。

焼酎を知る

焼酎の造り方

焼酎は原材料となるサツマイモや麦など、そして麹と酵母と水から造られます。それを図示してみました。まず、良質なサツマイモなどの原材料が大切です。次に、「焼酎造りは麹造りから」という言葉もあるように、麹造りがカギを握ります。麹は二昼夜寝かされます。麹の機嫌をとりながらうまく寝かせるのがコツです。それに水と酵母を加えて仕込むのを一次仕込みといいます。そして約1週間後、今度は蒸して砕いたサツマイモなどの原材料を入れます。これが二次仕込みです。麹ももろみも活きています。ぷくぷくぶつぶつ、杜氏や倉子たちはほとんど不寝の番で、甕をのぞいたり櫂棒で混ぜたり、まさにもろみたちをなだめたりすかしたりという感じです。こうして約10日間醗酵された焼酎もろみを、いよいよ蒸溜してゆくのです。

焼酎の歴史
焼酎のルーツ/

薩摩の焼酎が文献に登場するのは16世紀です。1546年、薩摩半島の山川に半年間程、ポルトガル人の船長のジョルジェ・アルバレスという人が滞在しました。彼は後に伝道のため来日するフランシスコ・ザビエルのため、『日本報告』を認めています。その中に、「飲み物として、米からつくるオラーカ」があると記されています。「オラーカ」とは、蒸溜酒のことです。

サツマイモの伝来/

サツマイモは中南米の原産で、フィリピンから中国、琉球を経て日本に伝わったと言われています。薩摩では、サツマイモはカライモと呼ばれてきました。カラは唐天竺のカラ。海のかなたからの到来物のイモと言うことです。逆に奄美の喜界島では、ハンスーと言ったりします。これは蕃薯(バンショ)が、ハンスーと訛ったものです。種子島では、17世紀末に領主種子島久基が島内に広めさせています。薩摩に伝わったのは1705年、山川の漁師利右衛門が、琉球からサツマイモを持ちかえりました。 利右衛門は甘藷翁と呼ばれ、「玉蔓大御食持命保食神(タマカズラオオミケモチノミコト)」となって同地の徳光神社に祭られています。なお後に甘藷先生と呼ばれた青木昆陽が『蕃薯考』を著したのは1735年のことです。

焼酎の知識
焼酎の甲類と乙類の違い/

焼酎には甲類、乙類、そして甲乙混和があります。明治期、鹿児島には3000を越える蔵元がありました。大半が地区や郷相手の小さな蔵元でした。また大正期から終戦後にかけては、通常焼酎といえば、カストリ(酒の絞り粕にモミガラを加えて蒸籠で蒸したりして作った粗悪なもの)や甲類焼酎のことでした。甲類は、明治末期に輸入された連続式蒸溜機から作られるエチルアルコールをベースにしたもので、工業化された製法は大量生産にふさわしいものでした。これに対して、薩摩や大隅、壱岐などの単式蒸溜機によるものが乙類でした。機械的に蒸溜を繰りかえして作られた純度の高い甲類に対し、乙類にはもろみや原料の特有性分が存分に含まれています。そこに蔵の差異や杜氏たちの腕の見せどころも生まれるのです。

本格焼酎の名は1971年生まれ/

本格焼酎という名が生まれたのは、1971年のことでした。戦前日本では、学業の評価が甲乙丙丁戊で行なわれたり、入隊時の兵隊のランク付けにも甲乙丙が使われていました。するといかにも乙が甲に劣っているような印象を与えるため、登場したのが本格焼酎という命名でした。薩摩酒造が目指して来たし、これから目指してゆくのも丹精こめた手造り感に満ちた本格焼酎です。

焼酎の名前の色や命名/

本格焼酎にはリキュールと違って、着色を促すような格別のものは使われてはいません。(焼酎の旨味成分が「焼酎の華」として浮いていたり、樫樽等の色が溶けこんでいることもありますが)それでも「黒白波」「赤薩摩」といった名称があるのはどうしてでしょう。それは用いられている麹で、白や黒や黄などの言葉が冠せられている時もあります。また原材料のサツマイモの品種によって、黄金や紫や紅や茜のついた名前がつけられる時もあります。名前は力士や人の名前でも同じですが、多くは瑞称といっておめでたい字が添えられます。「優・秀・誉・盛・錦・美」などがそうです。また山や川や海や地名などが付けられるのは、それらは不動にして揺るぐことのない強い言葉だからです。焼酎の名前からも、焼酎のふるさとが垣間見えるのも楽しいことです。

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